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執筆者の写真Tadayoshi Honda

1970s (MEMBERS ONLY)

[社会情勢・時代背景] 

 第二次世界大戦後の世界経済成長が中東戦争の影響により原油の価格が高騰たオイルショックにより終わりを告げ、高度経済成長により環境問題が取り沙汰されます。アメリカの軍事力がベトナム戦争で限界を見せ、ニクソン・ショックによりアメリカのドル支配に陰理を見せ始めました。中華人民共和国が代表権を得たり、イラン革命、朴正熙暗殺など多極化の兆しを見せ始めました。コンピュータの世界にアップルコンピュータを始めとしたパーソナルコンピューターが登場するのも70年代でした。日本では高度経済成長期が終わり安定成長期に移行した時期にあたります。戦後からポスト戦後へと日本を始め世界が少しずつ動き始めてました。

組織や体制のなかに縛られることを拒んだ若者たちが、ベトナム戦争反対、女性解放運動、ヒッピームーブメント、環境問題へ対する関心など”LOVE&PEACE” (自由と平和)を求めて立ち上がり、アートや音楽、ファッション、ライフスタイルなど多様な文化が生まれました。


[ファッション]

70年代のファッションは50-60年代の”トレンドを追う”ものから、グラムロック、ディスコ、スカ、レゲイなど様々なカルチャーに影響を受けながら、”個性”を表現するものへとかわっていきます。堅苦しい組織や体制を拒みそれを音楽やアート、ファッションで示していった若者達は、性別やジャンル、スタイルの意味をこえていろいろな組み合わせの着こなしをし始めていきます。

トレンドは1970年代をきっかけに大きく変化していきます。それは一言に「多様化」「バリエーション」の時代に突入していきます。プレタポルテのコレクションの傾向も徐々に多様化していき、それぞれのデザイナーが思い思いにコレクションを発表し、個人が自分の好きなデザインを選ぶ、そして着る、それがファッションとなる。1970年代のファッションシーンは、既に圧倒的な地位を確立したイヴ・サンローランケンゾーがファッションリーダーに君臨して進んでゆく。その他のデザイナーでは、イッセイ・ミヤケカステルバジャックソニア・リキエルなどが活躍していました。

・ミックスマッチニット ・プラットフォームシューズ ・パンタロン

70年代とその前の時代との大きな違いは、ラグジュアリーブランドと結びついたファッションアイコンが不在。50年代はGivenchy(ジヴァンシー)とオードリー・ヘップバーン60年代はCatherine Deneuve(カトリーヌ・ドヌーヴ)とイブ・サンローランと言うように、スターブランドには、ミューズ的アイコンがいてラグジュアリーブランドと車の両輪のように、時代を象徴する存在になっていたが70年代は、ファッションがドレスダウンしていった時代。ミニスカートやサイケデリックの流行を引きずりながらKENZOのペザントや20年代ルックの流行がフラワーチルドレン、ジーンズ、エスニックと混じり合い、よりカジュアルに、より個性的になっていった時代です。平和の象徴は「花」であり、自由の象徴は「ジーンズ」であり、正統派の美しさよりキッチュな「悪趣味って悪いことなの?」と当時のVOGUE誌が特集を組むほど柄と柄の組合せが増加、同時に新たなエレガンスが生まれゆったりしたブラウスやソフトなマキシスカート等、フェミニンな方向へと向かっていった時代でもあります。

『Vivienne Westwood』

イギリスのパンクムーブメントを牽引したファッションブランド

70年代は、社会への反骨精神を音楽やファッションで表現したパンクムーブメントが盛んになった時代でした。イギリスのパンクムーブメントの火付け役となったのが、ファッションデザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッド。“パンクの女王”として社会活動とファッションを融合させました。1971年に当時のパートナー、Malcolm McLaren(マルコム・マクラーレン)とともにキングスロード430番地にブティック「レット・イット・ロック (LET IT ROCK)」をオープン。74年には店の名前を「SEX」に改名。マルコムマクラーレンは「パンクの父」と呼ばれる存在で、彼はブティック名を「SEX」に変え、店に出入りする若者たちにヴィヴィアンのデザインした服を着用させます。マクラーレンが彼らをプロデュースし、そうして生まれたパンクで過激な反社会的ロックバンドが「セックスピストルズ」でした

ケンゾーの活躍

高田賢三が立ち上げたケンゾーのファッションは70年代のパリコレクションで中心を担い、常に話題を提供する存在でした。そのファッションの特徴がまさに「多様性」。一つのシーズンのコレクションにはエスニックで装飾的なフォークロアスタイル、クラシカルでベーシックなもの、スポーティブなものなどいくつかの柱があり、様々な提案をしていきました。さらに、アバンギャルドな若者ファッションのセンスを取り入れたのも注目されました。プレタポルテがスタートし、高級既製服の方向へ向かいつつはあったが、パリで発表されるハイファッションの世界は若者向けのデザインやオリジナリティはマイノリティで、伝統的主義が残っていた。そんな中、日本から身一つでフランスに渡った高田賢三はそのような伝統主義を飛び越え、若者の圧倒的な支持を得ていきました。



この時期からファッションショーが発表というよりは「ショー」、見せ方が中心となり「ジャーナリズムに話題を提供する見世物にすることが、消費者に注目される」図式が成立していった。その中心にいたのは「エキサイティングで楽しいショー」と評判だったケンゾー

1973年A/W 「農民ルック」

1974年A/W 「ペルールック」

1975年A/W 「中国ルック」

1976年S/S 「アフリカンルック」

1979年S/S 「エジプトルック」

など毎年話題となった。






日本

アメリカのサブカルチャー文化が日本にも渡来し、テニスやサーフィンなどアメリカンスポーツが日本で 人気になっていました。その影響もあり、日本ではジーンズを台等に、ダウンジャケットやトレーナーなど、カジュアルなファッションが人気になっていました。

ニュートラ

1975年前後から女子大生やOLなどを中心に流行したスタイル。起源はアイビー、上品で女っぽく大人っぽいがテーマ。グッチやエルメスなどのブランドの小物を派手な色使いで取り入れたスタイルで、神戸で発生したスタイルを『an・an』が取り上げ、『JJ』によって定着したといわれています。反ジーンズを旗印とし、シャツと膝下丈のタイトスカートの組み合わせが代表的なコーディネートでした。


ハマトラ

70年代後半に横浜発のお嬢様ファッションでフェリス女学院がルーツ。ニュートラよりも少女っぽく、かわいくて従順なファッションスタイル。横浜を中心にカジュアルダウンしたスタイルが大人気となりました。

プレッピー

制服をルーツとするエンブレム入りのブレザーやカーディガン、ボタンダウンシャツ、ローファーといったトラッドアファッションで、アメリカナイズされた大人のスタイルへ憧れから生まれたスタイル。アメリカの大学生を中心にしたアメリカのライフスタイルに強い影響を受けていた。


-小話-

Studio 54

1970年代後半、ニューヨークで一世を風靡した Studio 54 。オペラハウスを改造した内装、ダンスフロアの巨大なオブジェ(月の男と麻薬用のスプーン)、ステージでのライブといった眩しい光景に彩られながら巨大なパーティーは始まる。Andy Warhol (アンディ・ウォーホル) や Calvin Klein (カルバン・クライン)、Elizabeth Taylor (エリザベス・テイラー)、Mick Jagger (ミック・ジャガー) らアート、ファッション、音楽、映画、文学といったカルチャーシーンのセレブリティが足繁く通い、数多くの逸話が今でも語り継がれている伝説のディスコ。ディスコブーム全盛期であった1977年に Steve Rubell (スティーブ・ルベル) と Ian Schrager (イアン・シュレッガー) によってオープンされ、通称「ヴェルヴェット・コード」と呼ばれる厳しい入場者チェックがあったほど、当時は誰もが憧れる唯一無二のナイトクラブだった。それまでアンダーグラウンドな存在であったディスコを、表舞台に一気に引き上げました。ここを訪れる者たちは、自分なりの最高のお洒落を決めこみ、ダンスフロアで朝まで踊る。AIDSのチャリティーダンス大会などといったイベントも大盛況だった。「Studio 54」は、日頃の窮屈な生活から心を解き放ち、自由と夢と享楽を与えてくれる場所でした。しかし、「スタジオ54」の最盛期は短かった。77年4月のオープンから2年後の79年に経営者ふたりが脱税容疑で起訴されて有罪となり、80年2月から13カ月を獄中で過ごすことになりふたりは店を売却した。わずか2年間の儚い夢のような時であった。


[メイクアップ]

女性解放運動の動きの強まりは広告や化粧品業界にも影響をあたえた。

いくつかのブランドは新しい独立した女性たちにアピールするために、昔ながらの”女性はsex objectや専業主婦”とする描写から離れていった。女性解放運動をする女性たちにとっては化粧をすることにより”sex object”として見られることがジレンマでもあったが、それでも化粧をしていくなかで”美しさは内側からくる”という考えから、女性達はよりナチュラルな商品を欲しがっていきました。健康的な色の肌に力の入りすぎないやわらかいナチュラルなメイクが流行し、原材料にいたってもナチュラル志向になっていきました。

-ファンデーション-

ナチュラルな肌色に、パール感のあるライトなリキッドやパウダーで立体感のある健康的な艶のある肌。人気だった日焼けした肌を表すためにブロンザーも顔全体につかわれました。


-チーク-

ベリー系のチークが好まれ、パウダー、ジェル、クリーム等いろいろなフォーミュラがありました。普段用のメイクで70年代を通して常にナチュラルではあったが、70年代中盤から80年代に向かい徐々に目立つように入れられるようなります。



-眉毛- 

全体的に細めの眉が多い。細くても毛の流れが分かる程度にエアリーで自然なものがスタンダードでブラシや透明マスカラでナチュラルに毛並みのをととのえる程度。70年代前半には20年代のリバイバルがあり、人形の様な顔にスモーキーアイ、細眉が流行。



-アイシャドウ- 

パステルカラーやシアーなクリームタイプのアイシャドーをまぶた全体にのせた。


-まつ毛-

上下まつげもしっかりとマスカラ。

60年代に続き、付けまつ毛がよく使われたががナチュラルな形が好まれるようになる。


-口紅-

より肌に近いトーンの、ピンクやピーチカラーで艶とパール感のあるグロスが好まれる。


-ネイル-

長いつけ爪が流行し、よりプロフェッショナルな仕上がりを求める人々が増えビューティーサロンも急速に増えた。

ネイルアートが流行する。忙しいハリウッド女優たちに最適などんな衣装にもマッチするシンプルなスタイルのネイルの必要性にマニキュア会社のOrlyの創設者Jeff Pinkにより”The FrenchManicure”(フレンチネイル)が生み出されると、fashion runway や美容業界でも流行した。


[ヘアー]

60年代に台頭したヒッピーは70年代にピークを迎え、彼らはその思想を音楽やアートやファッションそしてヘアによって表現しました。自由な思想、ありのままの姿を受け入れると言う事を表現するのに加え、ストーンズやビートルズなどの影響もあり長髪が浸透しました。60年代における男性のロングヘアは社会への抵抗・反体制を表現するものであったが、70年代に入ると反戦や徴兵拒否の意思を込める事もありまた。

こうした背景により、70年代は再びロングヘアが浸透していき、特徴としてはナチュラルでドライなロングヘアで、バンダナやフラワーモチーフの花飾り等を組み合わせました。

分け目をつけず、全て後ろにとかしつけ、大量のスプレーで固めるか、サイドパートだったものからセンターパートが流行し当時のファッションスターであったAli MacGraw(アリ・マッグロー)がストレートでフラットなロングヘアにして印象に残るヘアとして定着し、ウェービーヘアの女性もストレートアイロンで髪をまっすぐにするのが大ブームとなりました。ストレートの重い前髪も流行。目元ギリギリで切りそろえ、長いストレートヘアとのコントラストを印象づけた。質感はバーキンのような飾らないナチュラルでやわらかで風になびくような質感、Jacqueline Bisset(ジャクリーン・ビセット)のようなボリューミーで大きなカールを施した質感等多くのロングヘアのバリエーションが生まれました。


-レイヤースタイル-

60年代まではボブベースが主流であったが、70年代になるとレイヤーカットによって躍動感がありラフで自由な雰囲気が見られる様になります。

以前のようなきっちり構築されたスタイリングは少なくなりフェザーのような質感が流行し、Deborah Harry(デボラ・ハリー)Patti Smith(パティ・スミス)のように躍動感があり洗練された印象を与えました。他にはCarly Simon(カーリー・サイモン)や、Bianca Jagger (ビアンカ・ジャガ)などが影響を与えた。スタイルの幅はロングからショートまで多岐に渡り、オイルやスプレーと行ったスタイリング剤やアイロンやカーラー、またブロー等の技術の組み合わせによって様々な表現が可能となりました。この頃になるとファッションアイコンは女優や俳優だけでなくミュージシャンからの影響も色濃くなりジャンルが多様化した事で、人々は自分のアイデンティティと共感する音楽に合わせてファッションとヘアを選ぶようになったのもこの時代の特徴でした。


-ブリーチヘア-

Blondie(ブロンディ)のボーカルDeborah Harry(デボラ・ハリー)がブリーチヘアの人気を一気に高めました。デボラはきらびやかなブリーチヘアにインパクトのあるアイブロウやメイクをし、ファッション性が高かった。デボラの地毛は赤毛であるが14才の頃、女性の先輩がブロンドにしていたのに憧れ、少女の母が美容師で自宅にてブロンドになる方法を知ると、高校の頃にはデボラはメイクをしてブロンドにし、高校一の美少女に選ばれ「自分の魅力に目覚めるきっかけとなった」と答えていました。

-ファラ・カット-

チャーリーズエンジェルスで人気を博したFarrah Fawcett(ファラ・フォーセット)がしていた、ロングスタイルに対して顔まわりとトップからたくさんのレイヤーを入れたハイレイヤースタイル。ファラカットとも呼ばれアメリカに留まらず世界的に流行しました。のちのサーファーカットの元祖となったが、軽やかに自由に動き、セクシーな印象を与え、海辺の潮風や、そこでなびく風との相性も良く、後のLAでサーフスタイルがトレンドの際にはサーファーに支持されました。レイヤースタイルにより、ブロースタイルよりも簡単で空気感を出せることからカーラーで巻くスタイルが流行した。中頃はまだサスーンの影響も強くグラボブ中心の仕事をしていた美容師はどうやって段を入れるか試行錯誤していたが縦スライスで切るテクニックが広まると一気にブレイクしていきました。顔まわりは鼻先くらいの長めのバングからアウトラインにかけて短くレイヤーで切られており、これまでにない印象を与えました。大きなカールでリバースにスウィングするように流れ、風に吹かれたかのような自由な空気感とセクシーさをだしていました。80年代に日本で大流行する「セイコちゃんカット」の元になるスタイル。

シャギーカット・ショートレイヤー

 映画コールガールでのJane Fonda(ジェーン・フォンダ)によるミディアムヘアでしっかりとシャギーが入ったスタイルでトップが短くえり足に長さがあるスタイルで、ボトムにいくに従い長さがあり縦長でスクエアなシルエット。バングに長さがあるのも特徴で、顔周りは顔にかかるようにシャギーが入っている。男性でも人気が出ておりベイシティーローラーズなどミュージシャンの間で多くみられ、のちのマレッットヘアのニュアンスにつながっていきます。50年代60年代のピクシーカットやボブとはまた一線を画したトップが短く軽さと手グシを通したような流れがあるショートのレイヤースタイルであり、これまでにない新しい女性像をつくりました。



-マレット-

ショートに襟足が長いのが特徴。女性では一時期ビアンカ・ジャガーもとり入れていた。

ロックが盛り上がりを見せた時代というのもありスタイルの強さが印象的で火つけ役はジーギースターダストの頃のDavid Bowie(デビッド・ボウイ)であり、グラムロックの流行とともに広まった。1980年代に人気が爆発しレズビアンの女性たちにも流行しました。



ンク/スパイキーヘア

音楽としてのパンクが生まれたNY。Patti Smith(パティ・スミス)、Iggy Pop(イギー・ポップ)Ramones(ラモーンズ)に代表されるスタイルで、肩にかかるかからないかの長さでスソが長く、一見暑苦しさを感じさせるスタイル。ウェーブが強めのクセを合わせて、より特異な雰囲気をつくった。この時代のロングヘアは社会への反体制意識や怒りを表すメッセージであった。NYのパンクムーヴメントの影響を受け、音楽と共にファッションとしてのパンクが確立した。DIYというのがスローガンであり、ファッションは元より、ヘアも自分で独自で様々な形で表現された。スタイルはハードで、寝癖のような無造作ヘアの短髪を逆立てたり、時にはモヒカンのような煽動的で過激なもの、ドライでラフなウェーブヘア、DIYを地でいくような蛍光色にセルフで染めたヘアカラー等が特徴。

スパイキーヘアの場合は石けんやグリセリンで固めスプレーでツンツンと攻撃的なイメージを表現。ストリートパンクガールもショートヘアで髪を逆立てるような者もいました


-70年代ボブ-

70年代のボブは60年代の厚みがありボリューミーなボブとはうって変わり、様々なバリエーションが生まれた。Deborah Harry(デボラ・ハリー)のような無造作でナチュラルなクセを生かしたナチュラルでどこか軽さを感じるブロンドボブ、70年代後半に一世風靡したボウルカットや髪を伸ばしたTwiggy(ツイッギー)やBeverly Johnson(ビバリー・ジョンソン)に見られる曲線でスタイリングしつつもクリーンさを感じさせるボブ。又、当時映画『華麗なるギャツビー』により、20年代リバイバルブームが一時起こったことにより、出演していたミアフォローの20年代フラッパーを想起させるボブ等も注目された。76年にはヴィタルサスーンから川島文夫氏がボックスボブを発表した。

-ハミルカット-

76年インスブルグ冬季オリンピックの金メダリストであるフィギュアスケーターのDorothy Stuart Hamill(ドロシー・ハミル)のショートボブスタイルが注目されました。顔まわりはマッシュバングで、そこからサイドに前上がりのアウトラインで、バックに向けて流れる様にカットされており、バックも鼻の高さにウエイトが有るグラデーションボブスタイル。 これは一見、ショートでシンプルなデザインだが、スケートでは何度もスピンしても髪型が崩れず、彼女が舞うとフワッとなびき着氷すると乱れずおさまることに視聴者達は美しさを感じ人々は魅了されました。これは手がけたのはNYで活動していた須賀勇介氏であった。日本ではStudio Vのディレクションをつとめる。他に黒柳徹子のタマネギヘアの考案者でもあり、NYではJacqueline Kennedy(ジャクリース・ケネディ)やDiana Ross(ダイアナ・ロス)等も手がけていた伝説的なデザイナーでした。          


-メンズ-

ウェーブロングヘア

1970年代はロックミュージックが広がりました。ガレージロック、グラムロック、パンクロック、ハードロック等、様々なジャンルが生まれミュージシャンがファッションに影響を与えました。レッドツェッペリンピンクフロイトのようなハードロックにはロングヘアに細かいウェーブスタイルも見られ、オフショットではドライでAラインに大きく広がったスタイルが見られる一方、ライブシーンではオイルとスプレーと汗が混じった様な、ウエットで、男臭く、時にギトギトした印象でした。


ニューウェイブ

78~79年パンクが徐々に影を潜め、ニューロマンティック(ブリッツキッズ)が現れました。1972年のDavid Bowie(デヴィッド・ボウイ)のホットオレンジのジギースターダストカットに影響された多くのアートスクールに通う学生やミュージシャンやデザイナー志望達はメイクや衣装に可能な限り工夫を凝らし毎週木曜の夜にコベントガーデンに集いました。ニューロマンティックのメッカ、クラブブリッツに集まった彼らはパンクとは違うニュアンスで自分の世界観や主張を表現し、アーティスティックでポップなスタイルで洗練されていました。ブリッツでコートチェックをしていたBoy George(ボーイ・ジョージ)もその一人でグラムロックの退廃的な雰囲気を更にセクシーにし、ファッショナブルでユニセックスなイメージで82年にカルチャークラブのボーカルとしてデビューしました。赤やブロンドの派手なヘアカラーに レイヤーの入ったヘアに逆毛を立ててボリュームを持たせた者やパンクの名残もあり、短髪で逆立てるが、グラム的なメイクを施す事で中世的な印象を与えた夜のクラブシーンで生まれたので過激で派手なスタイルが多くみられました。


-ドレッドヘア-

他文化への新たな関心の高まりとともに、1970年代にジャマイカとラスタファリアンのライフスタイルの影響を受け入れ始めました。伝説的なミュージシャンのBob Marley(ボブ・マーリー)は、ラスタファリアン文化を普及させる一役を担い、その一つがドレッドヘアでした。ドレッドヘアは何世紀にもわたって存在していましたが、アフリカ系アメリカ人の間で70年代に入り人気が高まりました。


ヒッピー文化の影響を受け、無造作に伸ばしたもみあげ、口ひげやあごひげをジョンレノンやフランクザッパなどが好んでいました。


日本

60年代までは少しずつシザーでのカットが見られるようになったが大部分はまだレザーでのカットが主流の時代でした。70年代に入るとヴィダルサスーンが来日した事もあり、シザーでのカットが受け入れられブロー技術が注目を浴びると共に、リンスが登場した事でシャンプー&リンスのセットが当たり前となろうとしていました。一方、ヒッピー文化の流れと海外の影響から70年代前半はロングヘアが注目され、技術の追求によってレイヤーカットの流れとボリュームが強調されるスタイル等、カルチャーの広がりと共に様々なヘアが生み出されました。


ロングヘア

70年代前半にデビューした南沙織の影響でサラサラとしたストレートのロングスタイルが憧れのマトとなりました。当時は日本人離れした顔立ちで額を出したヘアで注目を与えたセンターパートで顔立ちのバランスの良さを押し出すと共にヘルシーな印象を与えました。

姫カット

70年代前半に麻丘めぐみがしていた事で注目。ロングヘアの再度を大胆に直角に切り込み短い髪をほほのあたりにつくり、かわいらしい印象を与えました。

ニュートラ

サイドを流したレイヤーカットがポイントであるが、柔らかいウェーブフェミニンさを出したり、ブローを施して品のある仕上がりにしているのが特徴。


ハマトラ

ニュートラよりも少女っぽくかわいくて従順なイメージでサイドを流したレイヤーカットが特徴。


ニュートラとハマトラの共通点

いずれも当時は毛量調整の技術が追いついておらず、フォルム重視でボリュームがありトップやバングに立ち上りを出していました。バングはSカールで顔まわりはリバースにきっちりとブローされ、毛流れも出て軽やかな印象を受けるが日本人の職人的な感覚も強いためか左右対称に仕上げることが重視されていました。


[インスパイア画像] https://pin.it/pMGh6AU


[映画]

・ジョース       https://youtu.be/2I91DJZKRxs

・時計じかけのオレンジ https://youtu.be/vN-1Mup0UI0

マボガニー物語    https://youtu.be/X5UwvqxD8ac

アニー・ホール https://youtu.be/X5UwvqxD8ac

サタデー・ナイト・フィーバーhttps://youtu.be/op5FxEs1aR0

修羅雪姫       https://youtu.be/34aZ7Xlf7dQ

哀しみのベラドンナ  https://youtu.be/zHDC2yCHASQ



70s舞台の現代映画



その他の映画 https://pin.it/EtqUTUB


[音楽]

スウィングが主流の60年代とは異なり、北米、ヨーロッパ、オセアニアでは、この10年間でディスコが台頭し、特に1970年代の中期から後半にかけて、ディスコが10年間で最大のジャンルの1つになった。ベルボトムやタンクトップがなどのファッションが失敗した10年と言われしばしば嘲笑されたが、それでも音楽にとっては豊かな10年となった。

ヨーロッパでは、1970年代の終わりにかけて、ユーロディスコとして知られるバリアントの人気が高まる。ディスコとは別で、ファンク・スムースジャズ・ジャズフュージョン・ソウルは、10年間を通じて人気を維持した。ポピュラー音楽の流入は、1970年代初頭に間もなくロックンロールに変化した。ロック音楽は西洋の音楽シーンで重要な役割を果たし、パンクロックは1970年代中頃から後半にかけて栄えた。ロックの他のジャンルとしては、特にグラムロック・ハードロック・プログレッシブ・アートロック・ヘビーメタルなど、さまざまな成功を収める。 レゲエなどの他のジャンルは、10年間を通じて革新的であり、大きな支持を集めると同時にクラシック音楽は少し勢いを失い始めた。アジアではさまざまな音楽が流行し、日本ではこの10年間でシンセポップ・エレクトロ等、さまざまな日本のアーティストやバンドを通じて作成されたエレクトロニックミュージックなど、いくつかの音楽的局面が見られた。


・spotify


・Disco music


・Dance mashup


・London punk rock show


・70年代全名曲 ミリオンヒットメドレー






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